November 2001アーカイブ

前々回の続きに戻ります。
こうして、バーニーズも新宿と横浜の2店舗体制になり、やっと会社としても利益が出始めましたし、知名度、ブランドとしてのイメージもかなり上がってきました。

ここまで来るのに、ちょうど4年ぐらいかかったでしょうか。0からのスタートでしたので、本当に勉強になることばかりでした。人との接し方はもちろんのこと、海外での仕事の仕方、プレゼンテーション方法、また日本の古い体質の中での自分の動き方など、なんだかオヤジくさい所も随分学ぶ事ができました。
また、20代の時よりも多くの人と知り合い、友人もかなり増えました。仕事を通じてでもこんなに仲良くなれるのだと思いすご~く嬉しい思いもしましたが、その反面、口ばかり、表面上ばかりという人もたくさん見ましたので、世の中の怖さ、醜さ、そして嫉妬などもとても感じ、考えさせられたものでした。

しかし、B型のマイペースな私は、相変わらず元気に前向きに!をモットーに、バーニーズのイメージ訴求と、売上アップに日々走りまわっていました。
そんなとき、とても衝撃的なことが起きました。
これは、もしかしたら今まで自分が味わったことのないようなこと。自分の力ではどうにも防げないし、切り抜けることさえも出来ない重大事件。それは、N.Y.のバーニーズがチャプター11という日本で言うところの会社更生法を発表したのです。それは、どのようなものか、その時には全然理解できない、また思いもよらない突然の事でした。N.Y.側がこのことによってどのように今後なっていくのかも全く想像出来ないような感じでした。でも会社全体がとても衝撃を受け、親会社も含めて、大きな渦の中に巻き込まれていきました。

私も正直言って、狐につままれたような感じで、昨日まで電話やファックスで仲良く話していたN.Y.の人たちが、敵ではないのですが、信じられない、これからどのように接していけば良いのか・・。また、その頃やっとバーニーズの日本でのブランディングもでき、売上、認知度も急速に上向いて来ていたのにと、そう思うと悔しくてたまりませんでした。この会社に入社して7年間作り上げてきたものはなんだったのだろうか。これから、どのようにしていけばいいだろうかと、そんな事を日々動いていく状況をみながら考えていました。
そして、時々呼び出されては行われる弁護士の方とのミーティングも悲しいものでした。何故なら、N.Y.の彼らとも最初のうちはいろいろと、もめたりもしましたが、7年経ったその頃はいい意味でのパートナーになっていましたし、その彼らから教えてもらったことも一杯ありましたので、この時に聞かれる内容や事業関係(どちらがその時、何と言ったか等)は、仕様がないとはいえとても嫌でした。
また、一番悲しかったのが、それと同時にお客様や外部の方から、会社や「お店がつぶれるのか?」と聞かれることでした。お店でも、心配してくださるお客様がいたりして、その応対や答え方なども、誤解のないようにするという、会社の広報的な仕事も私のテリトリーに加わり、違う意味で慎重に、かつ迅速に動いていました。

そして、その頃、まるでこの状態をみていたかのように数多くのヘッドハンティングの方や会社から声がかかりました。インポートの洋服関係、化粧品、アミュ―ズありと本当に興味深い、また自分のキャリアを生かせていけるようなポジションでした。辞めたかったわけではありませんでしたが、年齢的にも私は39歳という、通常ではかなり転職などには難しい、厳しいところにきていましたので、自分でもかなりシビアに考えていました。そして、悩む事、3ヶ月ついに、大好きだったバーニーズを卒業して、新しい仕事に就く決心をしました。

前にも書いたように、本当にとても興味深い話をたくさんもらっていたのですが、その中で自分が本当に良いと思え、また好きという気持ち、誇りを持ってPRができると思ったのが、ジョルジオ アルマーニ ジャパンだったのです。その上、この年の11月にアルマーニ氏自身が16年ぶりに日本に来日し、1000人規模のセレブリティをお招きしてのショーを行うというのも、とてもやりがいがあると感じたからです。

こうして、またまた大変な時期の新しい会社に移リ、私の新しい生活が始まりました。

つづく
ps:
30代を振り返ってみると、やっと自分の仕事が出来るようになった10年間だったと思います。
それは、20代の頃に比べて自分に対してかなり厳しく、冷静に、そして前向きにやってきた結果のように思います。そして女としても、働く仕事人としても、とても多くの方との出会いや別れを経験し、ホンの少し自分の中でも幅ができ、人と接すること、許すことが出来るようになったようにも思います。皆さんの中でも、今まさに30代、いろいろな悩みや壁にぶつかっている方も多いでしょうが、この10年間はとても大切で重いものだと自覚しましょう。そして再度、自分のなりたい自分、やりたい仕事を考えてみてはいかがですか。
そう思っていると必ず、新しい道や人に出会えるはずですから…。

一度しかない人生です。悔いのないよう生きましょうよ。

結婚について。

前回の内容から、ごめんなさい、少し脱線してしまいますが・・・。
結婚について。
私は、元々何事に対しても形式にとらわれたくないと思っていましたし、特に結婚については、そんな考えを持っていました。
もちろん誰かを好きになって、その人と一緒にいたい、暮らしたいという気持ちは強く持ってはいますが、それがイコール結婚という形にならなくても、良いのでは・・と年令を重ねていくうちにますます感じていました。

では、何故このときに婚姻届を出すという行動をとったかというと、世の中の目や、中傷がとても面倒になったというのがかなりありました。
それは、彼と知り合ってから、何ヶ月か経った頃から私達は、一緒に暮らすようになっていましたが、そうした時に、彼の働いていた大きな会社の男の方々には、このような環境が理解されなかったようです。
“なんだ、あいつは結婚もしていないのに、○○と暮らしているみたいだぞ”とか、
“あいつの住所は○○方となっているが、あれは女の家らしいぞ”とか。
よく分からないのにいろいろなことを言われました。それは、何故かというと彼の会社と私の会社がとても密な関係にあり、両方を知っている人が多いというのもあったかと思いますが、それはもう予想以上に影でいろいろ言われて、もうこんなことまで、グチグチ言われるのなら、結婚したほうが楽と思ったからです。(誤解しないで下さい。結婚を楽と思ったのではなくて、この状況についてアカの他人から詮索されたり、されるのが正直言ってとてもうっとうしかったのです。)しかし、まだ私は迷っていましたし、このような状況に抵抗したい気持ちもありましたが。

でも、結果として普通の形を選びました。二人で何度も話ましたし、何回も揉めましたが、そのおかげで、自分達らしい形、考えをもって結婚をスタートさせることが出来たように思います。
そこで、結婚式だけは、普通ではない楽しいものにしたいと考えました。義理で参加してくれるような人は呼ばずに、本当に一生友人でいたい人達、そしてその人達がこのパーティでまた友人になってくれれば良いと、そんな気持ちで内容や場所を考え、とてもユニークで楽しい、主役は友人達のようなパーティが出来たと思っています。
そしてこれが、夫婦になってから一緒にやった一番最初のことでした。
若い頃のように人任せにしたり、親に甘えたりしたものではない自分達の意志とスタイルで始められたように思います。それからもう一つ、考えなくていけないことが私達にはありました。それは、私はすでに39歳でしたので、子供がいない二人の生活をしなくてはならないということです。人によっては、そんなことは年齢には関係ないと言われるかも知れませんが、私の今の生活の仕方、時間の組み立て方、また体力も考えればこのことは事実として受け止めなくてはなりませんし、彼にもこの事を理解してもらわなくてはなりませんでした。もちろん、最初は誰でも二人で当分は良いと言ってくれるものですが、それが一生ということになるとなかなか難しいし、それなりに覚悟がいることと思います。現に我が家でも、常に二人、男と女でいることに難しさを感じる事はありますし、そのことでギクシャクすることも何度かありましたので。そして、その都度、とことん自分の気持ちを相手に伝える時間を持つようにしています。それが、時には相手を傷つけたりすることもあるかも知れませんが、それをやっていかないと、言葉が適正かどうかは分かりませんが、仮面夫婦のようになってしまいそうで嫌なのです。
でも、この結婚は、若い頃とは違って、今の私にとって意味のあるものになっているし、大切に思っていることであるのは事実です。働いている時の自分と女である時、妻である時の自分を持つ、保つことによって、また新しい発見や考えも見つけることもでき、生きていくことができるし、しかも楽しさと存在感を感じながら・・・。

そしてもうひとつ、若い頃ととても違っている事があります。
それは、二人の時間を作る努力をしています。
お買い物、散歩、食事、映画やドライブなど、できるだけ時間を作って、お互いが隣りにいることを大切にしています。だって毎日一緒にいるわけですから、それを楽しまなくてはいけないと思いますし、そういう関係が出来ている間は、二人とも口に出して“好き”と言わなくても必要とされていることを実感し、大切にし合えるように思うのです。そして、それが結婚の基本と私は考えています。

つづく

横浜店のオープンの日、朝からどんよりとした感じで、しかも明日はもしかして台風が近くを通るかもしれない、そんな綱渡り状態でスタートしました。

場所も、横浜の山下公園横、確かにデートや遊びに行くには最高なのですが、プレスの方々や、取引先の方、もちろんお客様を呼ぶとなると、意外と距離があるもので皆さんにお越しいただくのはとても大変でした。
そこで、考えていたのが2部構成にして、昼間はプレスの方の内覧会、夕方からは横浜港で一番優雅な大きな遊覧船を使ってのお食事会とプレゼンテーション、そしてお店の中を見ていただく内覧会という、盛りだくさんのものでした。
何故こんなに、たくさんのメニューになったかというと、やはり横浜が普通に考えていたよりも遠かったということ、そしてどうせここまで来ていただくのならば、楽しんで帰って欲しいと思ったからです。体が幾つあっても足りない、本当にきちんと決められ通りに皆が動いてくれているのか、またお呼びした方々は楽しんでくれているだろうかと、胃がキリキリ痛くなるような時間、その上天気は下り坂。(どうにかしてほしい。神様助けてほしいなんて..。)神にも祈るような気分でした。

お店の内装やディスプレイもどうにか間にあって、商品もきれいに並び、お客様のいらっしゃるのを待つばかりでした。(何ヶ月も前から、横浜のお店に近いお家やマンションを一軒ずつみんなで訪ねて、バーニーズ・ニューヨークのことを説明したりしても、誰も知らなかったことなど、いろいろなことを思い出しながら・・・。)
また、お店の外観もとても美しく出来上がりました。新宿とも異なり海を意識した船のようなイメージ、他のお店とも全く違う、それはもう見ているだけで嬉しい気分になりました。当日は、1000人のご招待者の方々、国籍もミックスされたインターナショナルな雰囲気と今までにない異国情緒満点のレセプションでした。

私がここで学んだのは、お店はもちろんきれいな方が良いし、商品も大事だけれど、一番はやはり人、人が人を呼びその空気を作り、また楽しませる、それがとても大切だということでした。日本がいつまでも、大人になれないのはこのことが出来ていないとず~っと言われつづけてきましたが、こうして外国の方がほんの少しでも混ざると出来てしまうのは、とても面白いし不思議に感じました。18時にスタートして、全てのお客様が帰られたのが、22時くらい、それからスタッフ皆がエントラスに集まり、社長の号令で乾杯。みんなの目から熱い涙が流れたのは言うまでもありません。(私ぐらいかも・・・泣かないで、明日の朝からの取材やテープカットのことを考えていたのは・・・。社長からも薄情者呼ばわりされてしまいましたが。)
もちろん、この日も後片付けと翌日の準備で、近くのホテルに戻れたのは26時ぐらい。もうご飯を食べる元気も、力も出ませんでした。

そんな時、彼から携帯電話にメッセージが入っているのに気がつきました。
「オープンおめでとうお疲れ様でした・・・。」の簡単なものでしたが、私は初めて一人になった開放感と、その彼の暖かい言葉と心使いに胸が熱くなったのを覚えています。

そして、この日を境にますます仕事も楽しくなり、女としてこれからを考えられる気持ちになり、自分のこれからを再度考え直す、見つめ直す気分になりました。また他人と一緒に暮らすこともホンの少し考えられるようになり、楽しい老後、新しい生活というのを、彼と・・・。

つづく

こんな状況の中でも、私は頑張って働いていました。
何故なら、新宿店がオープンして3年目に入りやっと(売上の)数字も、認知度もあがってきて、今度は、新宿の2倍に近い広さで横浜に2号店をオープンすることが決まったからです。
また、この時の細かいオペレーションや、レセプションのやり方、宣伝方法などが、今度は、日本側の主導で決めてもいいということになりました。もちろん、個人的にはかなり落ち込んでいた時もありましたが、それ以上に私の中では、今度は自分達で何でも決めれる、N.Y.本社に提案できる事で、やる気も満々、会社全体も一致団結し、皆の心も一つになってきていました。たぶん、合弁会社で働いた方であれば、何度か同じように感じたことがあるかもしれませんが、本当に○○ジャパンのつらさが、ここで晴らせる・・・。そんな意気込みで皆が、動きだしていました。何も、常にN.Y.本社の顔色を見るというわけではありませんが、やはり意識したり、お伺いを立てたりしなくてはならない環境でしたので、そこがない、任せてもらえるということは、願ってもいないチャンスでした。そして、今までにやったことのないような、楽しくて、かっこいいレセプション、また横浜という場所のことを考え、そこでしかできない(例えば、海や、船を使った)ものなどを考えました。

ご招待するお客様も100名規模、今までにない、かなりのスケールでした。もちろん、予算がたっぷりあって、何でもしていいというのであればやりたいことは全てやれるのですが、私の仕事はどうしてもその費用対効果がわかりにくい部分もあるので、その点が常に葛藤ですし、課題です。この時も、毎晩その費用、予算とにらめっこをし、また広告代理店とも何度もやりあった末にいろいろなことが決まっていきました。そして、オープンのl週間前などは、横浜という地の利のせいもあり、なんと車でいつもなら30分も走れば家に帰れるのに、横浜のホテルに泊まりこむほど、緊迫した状況でした。

お店の中に洋服が届いては並ばせ、また届かない場合はどうするのかも考え、一歩進んでは、また後退するところが見えてきたりと、社員の皆でいくらやっても追いつかない、そんな日々でした。楽しくて、でも苦しい、オープンとはそんなものと毎日興奮状態でした。この頃、わたしはある人と知り合い、とても惹かれていきました。離婚をし、一人の生活のほうが楽、自分には結婚は向かないし、今のこのバタバタ環境には誰かを好きになるのは、面倒くさいし、もしかしら邪魔になるかもしれない、そんな風に考えてもいました。

でも、不思議なもので忙しくなればなるほど、好きな人と会いたい、好きな人と一緒にいたい、そういう時間を持ちたいと思うようになりました。でも、その反面、理由は何にしろ、一度失敗した私としてはどうも踏み出せない感じもありました。しかも、彼は6歳も年下というのもかなりの戸惑いでした、だって今までず~っと自分よりも年が上の方としかつきあったことがありませんでしたので・・・。でも、その頃の私にとっては、彼がいるといないとでは、かなり違っていたと思います。もともと会社の話はあまり私生活ではしない私ですが、なんとなくホッとする時間を与えてくれたり、応援してくれたりで、とてもいい気分で働いていられたからです。もちろん、まだ出逢ったばかりで、何の約束も決め事もしてはいませんでしたが、以前とは違う関係が作れそうな・・・そんな予感もありました。大人になってからの、出逢いですので自分を無くさずにやっていきたい、不安と喜び、信頼と尊敬、そして何よりも自分の気持ちに正直になれるかと、日々、自問自答していました。本当の自分の気持ちを確かめるために。

そんな中、遂にオープンの日を迎えることになりました。泊まっていたホテルから、車でお店に向かう間、久しぶりに緊張して手が震えながら運転して行ったことを今でも思い出します。
1993年8月末、朝6時、自分達のこの何ヶ月かをかけて準備していたことの結果が問われる日が、そして私にとっては忘れられない一日がスタートしました。
つづく

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